宗教って難しいね

スピーキングの授業で宗教の話題が出たので、
軽くのつもりで、日本のヤオロズの神々的な話をしたら、
ドツボにはまった。

普通に中の良かった先生なのだが、
ゴリッゴリのクリスチャンだったことが判明し、
興味があったので進化論にはどんな印象を持っているか聞いてみたら、
人間と猿の祖先が一緒なわけ無いじゃんと真顔で言われた。

ああうんそうか、と思いながらも、
つたない英語で、でもさ遺伝子とかほとんど一緒じゃん、
と聞いてみたら、「あなた、自分が猿って言われたら怒らないの」と
意味不明の感情論で切り返されたので、遺伝的な意味で言われたなら怒らないよ
と聞いてみたところ、「ああ、うん、そう」とかわいそうなものを見る目で見られた。

前に日本で、学校で進化論を教えないアメリカの州のドキュメンタリーを見て、
え、マジか!と驚いていたが、真顔で感情論の切り返しをされると、
意外と困るもんだなと思った。
科学の優れているところは、原因と結果が論理的に結びついているところで、
だからこそ、誰が同じ実験をやっても同じ結果が出るんで、美しいなと思うのだけど、
思考の拠り所が宗教になると、感情論以外での反論がほとんど帰ってこないので、
え、むしろなんで?としかいえないし、こちらが論理的に話しているつもりでも、
きょとんとされる。

「科学的であることの何が意味あるの?」と言われると、
ああ、こりゃラチあかんわ、という気持ちと、
絶対に宗教屋に大量破壊兵器は渡しちゃいかんなという確信が生まれた。

彼らの中ではすでに正義はバイブルで決まっていて、
いちいち考える必要がない。彼らに言わせると、過去の賢人たちが
すでになんどもトライ・アンド・エラーしてきた叡智の塊なのだから、
疑う必要がないそうだが、聖書がかかれた頃にマシンガンもインターネットも
ありはしないんだがそれはどう解釈しているのだろと、疑問に思った。が、
うまく英語で説明できそうになかったので、苦笑いをしてお茶を濁しておいた。

精神の拠り所として宗教を利用する自覚があるなら、宗教を否定するつもりはないけれど、
善悪が根本的に好き嫌いと大差ないことに気づかずに、
自分の正義のために迷いなく引き金を引ける人たちが隣人にいたらと想像したら、
空恐ろしいものを感じた。きっと裁判所でも「聖書に反したあいつが悪い」と、
なるんだろうけど、そういう人達が集まっている国では、まあそれが当たり前で、
だから、こちらの価値観で「なんで?」と思うことがまかり通るんだな、と自己完結した。

ニート ホノルル部
 30分 3.66マイル
 走っているときに足がつりかけた。大丈夫か?

 ハーフマラソンにエントリーしてきた。
 大会は8月19日(日)朝5時スタート。
 目標タイムは1時間半だが、現状かなり厳しそうだ。
 まだ20日間あるのでどうにかしよう。

それではまた明日。