愚痴(マイナス発言)を言うことについて

日記の方にて、今日嫌なことがあると書いた。
正直最初更新する前、それについての愚痴をブログに書こうと思っていた。
なぜならここくらいしか、自分のマイナス発言をする場がないからだ。

でもまあよくよく考えたら、愚痴を聞きたい人、読みたい人って滅多にいないよなぁ、
オレもできることなら愚痴なんか聞きたくないわぁ、と思ったのでやめた。

ただ、これもいい機会なので、マイナス発言について自分はどういうスタンスで
今後切り抜けていこうかを考えることにした。

自分ははっきり言って弱い人間だから、きっと愚痴を言うし、
誰かに対しての悪口も言ってしまうと思う。
でも、それがただの感情的に楽になるための取り急ぎの手段であることは知っているし、
その楽にあったあと人間関係であまりプラスに働かないことも知っている。

どうすれば、マイナス発言から生まれるマイナスの影響を極力抑えられるのか。

自分が認識した解決法は、2つ。
いう相手を選ぶことと、最終的に自分はじゃあどうするのかをセットにしていうこと。

・いう人を選ぶ
 基本的に愚痴を聞いて楽しいと思う人は、まあいないと思っている。
 でも中には愚痴を聞きたい、という人もいると思う。
 自分の中でそういった人物を場合分けしたとき、
 「他人の苦しんでいる姿は楽しい」パターンと「その人の弱い一面が見れた、嬉しい」パターンの
 2つに分けられるかなと思った。(まだあるかな、とも思っているけれど思いつかなかった。)
 前者は誰もが抱える一面だと思うけれど、それが顕著に現れる人とは
 なんとなく仲良くできそうになかったので、そういう人をアテにすることはしない。
 となると、後者のパターンだ。
 個人的にこの感じを上手く相手に与えられたら良いなぁ、と思っている。
 自分が「いや、こんなこと言えるの、ホントお前だけだよ」とか友だちから言われたら嬉しいし。
 ただ、これはこれで実現させようと思うと難しい。
 その嬉しいと思う感情はどこから来るかというと、日頃とのギャップからだ。
 「日常的にめっちゃ強そうで、完璧に見えるあいつがまさか、こんな感じで弱みを見せるとは…」的な流れが
 嬉しさの背景にあるのであって、
 毎日「ないわ〜」とか「マジ最悪」とか言ってるやつから
 同じ言葉を言われても、何も嬉しくない。
 つまり自分が相手に、同じ嬉しさを与えるためにはそれ相応の態度を常にとり続けなくてはいけない。

 結論として、「お前、もっと頑張れよ」となった。
 なんだかなぁ。


・最終的に自分はじゃあどうするのかをセットで話す
 上記の結論じゃあまりにもきついので(自分にとって)、
 もう少しすぐ行動に移せることはないかなと思って考えたのがこれ。
 自分が愚痴を聞いててイラッとするポイントはなんだろ、と思ったら、
 あまりにも他力本願だったり、責任転嫁が強すぎたりするなと感じたりする瞬間が思い浮かんだ。
 相手があまりにもひどい、それはわかったのだけれど、明日からじゃあどうするの?
 という疑問が浮かんできた時に、「あいつが一方的に悪いし…」で思考が止まってしまっていては、
 きっと次会う時も同じ愚痴を同じ感じで言うんだろうなぁとげんなりしてしまう。

 どんなしょうもない打開策であっても、結論として用意されていたら、
 次あったとき愚痴が「この前言った通り、アレ、試してみたんだけどさ…」で始まるだろうし、
 そのほうが聞いてて面白いかな、と思った。
 なにより少しでも前に進んでいる感じが、マイナス要素の塊でしかない愚痴の印象を
 和らげるのではないかという希望的観測が思い浮かんだ。

 なので、これから愚痴を言う際は、次回自分はどうするか、をセットにしようと誓った。

まあ、誓うだけで出来るようになったら、
努力は必要ないんですけどね、と台無しの言葉を添えて。